2011年8月5日金曜日

俊輔、手握り別れ「今にも走り出しそうだった」…松田さん死去

本当に惜しい選手が永い眠りについてしまったわね。34歳という若さでの突然の死。新天地での活躍が期待された矢先の出来事だったわね。今は本当に松田選手の冥福を心からお祈りするわ。



急性心筋梗塞(こうそく)で意識不明の重体に陥っていたサッカー元日本代表DFの松田直樹さんが4日午後1時6分、長野県松本市の信州大病院で死去し た。34歳だった。JFL松本山雅所属の松田さんは2日、松本市内での練習中に倒れて心肺停止状態となり、人工心肺で血流を維持していた。2002年日韓 W杯で初の16強入りに貢献。国際Aマッチ40試合出場の名手が、短すぎる人生を終えた。葬儀の日程は未定だが故郷の群馬県で予定され、母・正恵さんが喪 主を務める。

止めどない涙を抑え切れなかった。悲報から4時間半後、病院に駆けつけた俊輔は、遺族に1階の霊安室に招かれた。

白い扉の向こう側。松本山雅のモスグリーンのユニホーム姿で横たわり柔和な笑顔を浮かべながら両手を組む松田さんの遺体と対面すると、感情の堰(せき)が一気に破れた。冷たくなった松田さんの大きな手を握り、別れの言葉をかけた。

「最後に会えてよかった。信じられない。今にも走り出しそうだった。無念だったと思う」

神奈川・桐光学園高を卒業して97年に横浜Mの扉を叩いて以来、公私ともに世話になった。倒れた2日夜も横浜から病院に直行。人工心肺で血液を循環しな がら病魔と闘う「兄貴分」を必死に励ました。午前練習中に危篤の知らせを受けると、矢も盾もたまらず自家用車のハンドルを取り、病院に向かった。

固い絆があった。欧州で活躍した8年間、国際電話のたびに「早く横浜に帰ってこい。お前と一緒にサッカーがしたいんだ」と声をかけられた。昨夏のW杯南 ア大会で出場機会を失った際は「お前がいないとつまらない」と叱咤(しった)激励を受け、人生最大の苦境にも黒子役を務めて、岡田ジャパンの16強進出に 貢献した。04年アジア杯(中国)で、控えながらチームの雰囲気をもり立てた松田さんの姿を見ていたからだ。

最後の言葉は忘れない。俊輔の女児が生まれた7月19日夜、携帯電話にメッセージが届いた。「子供4人目か、すごいな。キャプテン頑張れ。優勝しろ よ」。16年間活躍し、「ミスター・マリノス」と呼ばれた男の遺志を継承する。松田さんが果たした04年以来のJ1優勝の栄光をつかみ、墓前にささげる。

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